日本の衣装とはほんとうに美しいものであると思います。
海外にもその国にふさわしい美しい衣服が多く存在しますが、
現代にも通用する美しさを持った衣服となると、そう多くは無いのではないでしょうか。
古来日本は、絹に恵まれ、その絹を使って精巧な織物を織り、
これに優雅な加工を施すことに長じてきたためであり、
また日本人は美しく艶やかな衣装を愛し、芸術家、工藝家が
美しい衣装を作る事に極めて熱心であったためでもあります。
こうした伝統が千数百年の歴史を経て、世界に比類の無い
日本独特の美意識を備えた衣装を作り上げてきました。

そんな中で現代に至るまでひときわ輝きを放ち続ける友禅染めが誕生したのは
江戸時代のことでした。

当時、世間では茶屋辻染など、模様染の大流行により,
一般大衆にもオシャレで華美なものが好まれるような時代がやってきていました。
それに対し江戸幕府は,天和3年に衣服制限令なる贅沢を禁止する政令を出し,
金紗(きんしゃ)や刺繍,総鹿子など贅沢な衣裳は,着ることはおろか作ることさえ禁止してしまいました。

美しいものを見にまといたいという女性の需要とは裏腹に、
衣服を作る事ができなくなってしまった呉服屋は刺繍や絞りなどを使わずに,
色彩の鮮やかさで華麗さを演出する,新しい文様染の開発が求められました。
これが友禅染誕生の背景となることになります。

 

そのようなな時代を背景に友禅染の創始者と言われる、宮崎友禅斎が現れます。

友禅斎は元禄の壮年時代には俊敏な才能を開花し、すでに扇面絵師として広く名を馳せ、西鶴本などにも歌われる有名人でありました。そんな人気絵師であった彼の描く花鳥風月、四季草花その他の豊麗な模様絵を、ある呉服屋が小袖模様の図案にどうだろうと依頼したことからきものの意匠に取り入れるようになり「友禅染め」と呼ばれるものが始りました。

友禅斎は江戸時代までに集積された美術の精華と染色技術を融合させ、創意工夫の末、糊防染と彩色による新しい技法を開発し、
ほとんど絵画的な自由闊達さで艶やかな模様を染め上げ、衣装界に新機軸を開きました。
(といってもどの技術工程を友禅斎が完成させたかということは明らかではなく、
いまだ不明な点が多いのも事実なのですが・・)
また自ら、きもの雛形本と呼ばれる意匠のデザインブックを著作するなど、現代のデザイナーにも
通じる縦横無尽の活躍を見せ、元禄の時代を謳歌しました。

晩年、友禅斎は金沢に渡り加賀の御国染めに影響を与え、
御用紺屋棟取(ごようこんやとうどり)の太郎田屋とともにお国染の意匠の改善や
友禅糊の完成など加賀友禅の基礎を打ち立てたと言われています。

ただ江戸時代初期の社会秩序の不備と、戸籍や民制の不完全なこともあって
この頃の書家、工藝家は生没のはっきりしない方が多く、友禅斎の出生地、 生年月、没年なども、
やや明らかになったという程度で的確な事は残念ながらはっきりしていませんが
いずれにしろ、一世の賞賛にとどまらず、その後長く日本衣装美の基調となり、
現代にまで大きな影響を与えた友禅斎の功績は非常に大きかったといえるでしょう。

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友禅染めが長く衣装美の頂点であり続けた背景には、
友禅斎の没後140年を経た明治時代、挿し友禅の名匠でもあった
廣瀬治助翁(備助)(1822〜90)による型染めの発明も挙げておかなくてはいけません。

明治時代に入り、扱いが容易な化学染料(合成染料)が輸入されるようになり、従来下絵を描き、糊を置き彩色を施し、すべて絵を描くように一つ一つ手で描いた友禅染めは、防染糊と型紙を用いた型染めによって大量に行われるようになりました。新しい人造染料を使用し、新しい技法によって、友禅染めはより美しく、より容易に作られるようになり、広く一般の需要に応じ得る、近代的産業へとなっていくこととなります。
現在、友禅染めが縮緬、羽二重などの絹織物をはじめモスリン、綿・・etcに盛んに応用され、
工業的な製品として地位を築いているのは、明治初期に治助翁が型染めを発明し、
これに後人の努力が加わって発達したためであると言われています。

友禅斎を祖とする友禅染めがあったとしても、治助翁による型友禅の創案がなかったならば、
友禅染めの発達と普及は今日ほど盛大ではなかったと言われています。
従って、友禅斎を友禅染めの始祖とするなら、廣瀬治助翁はその優れた後継者であり。
友禅の近代的飛躍をもたらした友禅界の大功労者であるといえるでしょう。

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